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2010年12月

2010年12月10日 (金)

ホールディングス(持株会社)(平成22年12月10日更新)

「絵入りの解説はこちらクリックお願い致します。

先日、放送の「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」でホールディングス(持株会社)のことをやっていました。この頃はよく見ています。ホールディングスは、持株会社(なお、ここでは純粋持株会社)ですが、文字通り株式を所有することによって他の会社を支配するような意味があります。

例えば、三菱UFJフィナンシャルグループのホームページの一部(上記リンク先参照)ですが、私の空想ですが、下記のような株式の所有の形態になっていると仮定します。なお、三菱UFJフィナンシャルグループというのは、ちょっと変な商号ですが、会社の商号で、持株会社になります。

また、三菱UFJフィナンシャルグループ(持株会社)のホームページには、事業目的として「傘下子会社およびグループの経営管理、ならびにそれに付帯する業務」とあります。http://www.mufg.jp/profile/overview/

持株会社が解禁されたのは、平成9年になります。ちょうど私は、経済法(主として独占禁止法)の講義を受けていた時期で、どのような形態の持株会社が許容されるか、公正取引委員会のガイドライン(通達)を勉強した記憶があります(内容は全く覚えていません)。なお、雑学ですが、独占禁止法という法律はありません。正式名称は、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」になります。

解禁前は、戦前の財閥の反省から持株会社が禁止されていました。「そうだったのか!池上彰の学べるニュース」では、財閥の1つが国家予算の何分の1に該当するようなとんでもない利益を上げていたことが取り上げられていました。戦後、GHQの指揮により財閥は解体されました。持株会社の禁止の理由としては余りにも大きな持株会社が、市場を独占することによって、公正な競争ができないことなどがありました。

解禁の理由としては、経済界が国際競争力確保の観点から持株会社解禁を強く要望したこと、企業の分社化による業界再編が容易になること(http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%8C%81%E6%A0%AA%E4%BC%9A%E7%A4%BE/)、  ほとんどの国で規制が既になくなっていたことなどがありました。

独占禁止法の改正により、会社法(当時は商法)でも様々な改正や制度が新設されました。完全持株会社の実現を従来より容易にする株式交換、株式移転、会社の一部を移転する会社分割が創設され、その他、合併に関する規定の改正(従来より容易に合併できるように改正)。この流れは、会社法制定まで続きました。今後もこの方向に変更はないでしょう。

参考 平成22128日 そうだったのか!池上彰の学べるニュース

司法書士 藤村和也 http://www.kfsj.net

2010年12月 2日 (木)

アイルトン・セナ 音速の彼方へ②(平成22年12月2日更新)

1992年のF1開幕戦は、南アフリカのキャラミサーキットだった。この年のF1は、電子制御(機械)が人間を上回った年だった。プロストは、1年の休養中だった(プロストは、1991年のフェラーリのマシンをトラックと揶揄し、解雇された)。

 私は、この年から本格的にF1を見るようになった。当時は、深夜の放送を見ていた(よく、途中で寝てました)。セナは、2番スタートだった。しかし、スタートすると3番手のウイリアムズのパトレーゼがセナを抜き、ポールポジションののウイリアムズのマンセルとワンツー(1番2番)体制をなり、そのままセナを引き離し独走した。

 ウイリアムズのマシンは、電子制御満載となっていた。セナの神業ですら全く通用しない段階に至っていた。トラクションコントロール(マシンを先に動かそうと制御する)そして、脅威だったのが、アクティブサスペンションである。

 F1をはじめレースカーはスレートのスピードももちろん、コーナーをいかに速く走るかが重要である。1977年ロータスは、グランドエフェクトカー(ウイングカー)を開発、1978年アンドレッテイがワールドチャンピオンになっている。グランドエフェクトカーは、空気をマシンの下の強制的に流すことによってマシンを路面に押し付ける力(ダウンフォース)を大量に発生させることができた。グランドエフェクトカーは、このダウンフォースの力によってコーナーを脅威的な速度で走ることができた。しかし、この強烈すぎるダウンフォースがなくなるとマシンが挙動不振になり、事故が多発したので、1983年から禁止された。この禁止によって、大幅にダウンフォースが減ったのである。現在においてもこのダウンフォースは重要でいかに失ったダウンフォースを取り戻すかが大きな課題となっている。

 サーキットは、完全な平面ではない。路面状況がわるいとこをでは、けっこうマシンが跳ねる。アクティブサスペンションは、この路面のデコボコをコンピューターで感知し、サスペンションを動かすことによってマシンと路面との距離を安定させることによって、安定し、多くのダウンフォースを発生させていた。翌1993年当時のアクティブサスペンションがテレビによく映っていたが、すごいスピードサスペンションで動いていた。もはやセナの腕では何ともできない状況に陥っていった。1992年限りでホンダもエンジンサプライヤーを撤退した。

 1993年もウイリアムズの優位性は代わらなかった。しかも、プロフェッサープロストがドライバーである。ただ、この年のセナが最高だと評価する人も多い。序盤にすぎないが、セナのスーパーテクニックが炸裂し、ポイントをリードしたのだ。ブラジルグランプリ、ヨーロッパグランプリは最高だ。結局、プロストがワールドチャンピオンになったが、日本グランプリもセナが勝利した(なお、このグランプリ終了後、セナとプロストは握手を交わしている。引退を表明、チャンピオンが確定していたプロストにもはやセナに対する敵対心はなかったのである)。圧倒的に非力なマシンでの検討。トータルでも2位になった。プロストは引退した。

 1994年F1は大幅にレギュレーション(ルール)を変更した。いきすぎた電子制御を抑制し、人のレースを取り戻すためだった。そして、レースをよりエキサイティングにするためにレース中の給油を久々に解禁した(なお、今年から再度禁止)。この給油の禁止によって、従前はフルタンクに積んで、最後まで走っていたものが、給油の解禁によって、全体の重量が軽くなっったり、燃料タンクが小さくなったので、スピードがとてつもなく速くなっていた。コースレコードがでていた。しかも、電子制御の大部分が禁止されたので、安全性能も低下していた。

 映画の最後の方で運命の一瞬に近づく映像が流れる。なんとも言えない思いになった。何度も見たことのある映像だが、、、、、、、、。そしてサンマリノ・イモラサーキットのタンブレをコーナーでその時を迎える。

 映画の最後で、セナがもっとも良いときのことを話す映像が流れた。1780年の後半のレースでこの時代は、政治もなにも関係がなく、純粋にレースにいどんでいたからのようであった。プロスト等の政治力に嫌気が差していたのだろう。

 この文書は、当時の自分を思い出して書いたもので、映画はこんなには細かくなっていません。1992年のモナコグランプリが映っていないのが残念です。ユーチューブで見れますけど。

 セナはヒーローなのです。

司法書士 藤村和也 http://www.kfsj.net

アイルトン・セナ 音速の彼方へ①(平成22年12月2日更新)

「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」を旧菖蒲町の109シネマズに見に行った(残念ながらシネマックス鴻巣ではやっていません。公式ホームページはこちらhttp://senna-movie.jp/です。

金曜日にたまたまこの映画をやっている(11/27から)の知ってどうしても見たかった。月曜日の夜に行ったが、10名くらいで見た。私がF1を初めてテレビで見たのは、高校1年の1991年の日本グランプリである。

当時はセナの絶頂期で本戦を日曜日の午後7時から9時というゴールデンタイムでやっていた(なお、日本グランプリだけの扱いで、ほとんどは深夜放送)。このグランプリは、序盤、マクラーレンのセナのチームメイトのベルがーがスタートから先行し、2位セナの3位タイトル争いをしていたウイリアムズのマンセルを押さえ込み、ベルガーが逃げるという形で進んでいった。数週目にマンセルが第一コーナーでオーバーし、そのままリタイヤしてセナの3度目のワールドチャンピオンが確定した。その後、セナがベルガーを追い越し、最終ラップの最終コーナーでベルガーに勝利を譲るという形で終わります。

マクラーレン内で序盤先行した方が、勝利するとういう取り決めがあったようです。ちなみに、これが最期にセナがワールドチャンピオンになったときでした。現在、スカパーで土曜日の午後9時から1989年のF1をチョイスして放映しています(2回まで終了)。

ちなみに先週はサンマリノグランプリでセナとプロストの確執が決定的になったレースと言われています。プロストは、1985年1986年のワールドチャンピオンで「プロフェッサー(教授)」と形容されていました。ちなみに1987年は、ホンダのターボが圧倒的な力を誇った年で、プロストも歯が立ちませんでした。モータースポーツは、車の性能の差がかなりでるのです。1988年マクラーレンは最強エンジンであるホンダ(あの日本のホンダです)エンジンを獲得、さらにセナがマクラーレンに移籍してきました。

セナが始めてワールドチャンピオンになれるチャンスを手に入れたのです。1988年マクラーレンホンダは、16戦15勝(セナ8勝、プロスト7勝)で圧倒しました。セナは、この年の日本グランプリで、劇的な逆転勝利でワールドチャンピオンを決めました。このレースでポールポジションスタートのセナがスタートでエンストし、遅れ、たまたま鈴鹿サーキットのスタート地点が下り坂だったため、うまくエンジンがかかり、スタートでき(それでも14位くらい(?)まで落ちました)ました。その後、猛烈に追い上げ、雨もあり(プロストは雨のレースが苦手でした)、プロストを逆転し、勝利しました。

そして、1989年のサンマリノグランプの第一コーナーでの紳士協定違反(?この紳士協定について 番組中で、プロストがセナに最初のブレーキングでの追い越しは危険だからやめようといい、セナがやってみるよと回答したと解説しており、最初のブレーキングは第1コーナーではありませんでした。)で、セナとプロストの関係は決定的に劣悪になったと言われています。

プロストが政治力を使ったのです。セナとプロストはこれをきっかけに会話をしなくなったと言われています。結果、F1は、セナとプロストという至上最高のドライバーが最強のチーム、最強のマシン、最強のエンジンで争うことになりました。マスコミをあおり、F1に人気はうなぎのぼりにあがっていきました。

ちなみに、89年日本グランプリの終盤に、トップを走るプロストのシケイン(スピードを落とすためのコーナーです)でセナがインに入りますが、プロストを衝突します(これは、プロストがわざとやったと言われています)。これで、事実上、プロストのワールドチャンピオンが決まりました。翌年プロストはフェラーリに移籍しました。90年の日本グランプリの第1コーナーでセナとプロストが接触(これはセナがわざとやったといわれています)しました。これで、セナのワールドチャンピオンが決まりました。

司法書士 藤村和也 http://www.kfsj.net

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