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2018年4月

2018年4月24日 (火)

臥薪嘗胆(故事成語 史記)

故事の由来

『史記』によると、紀元前6世紀末、呉王闔閭は先年攻撃を受けた復讐として越に侵攻したが敗れて自らも負傷し、まもなくその傷がもとで病死した。闔閭は後継者の夫差に「必ず仇を取るように」と言い残し、夫差は「三年以内に必ず」と答えた。夫差はその言葉通り国の軍備を充実させ、自らは薪の上で寝ることの痛みでその屈辱を思い出した(臥薪、この記述は『史記』には存在せず、『十八史略』で付け加わっている)。まもなく夫差は越に攻め込み、越王勾践の軍を破った。勾践は部下の進言に従って降伏した。勾践は夫差の馬小屋の番人にされるなど苦労を重ねたが、許されて越に帰国した後も民衆と共に富国強兵に励み、その一方で苦い胆(きも)を嘗(な)めることで屈辱を忘れないようにした(嘗胆)。その間、強大化したことに奢った呉王夫差は覇者を目指して各国に盛んに兵を送り込むなどして国力を疲弊させた上、先代の闔閭以来尽くしてきた重臣の伍子胥を処刑するなどした。ついに呉に敗れて20年後、越王勾践は満を持して呉に攻め込み、夫差の軍を大破した。夫差は降伏しようとしたが、勾践が条件として王への復帰を認めなかったために自殺した。

「臥薪嘗胆」の成語の成立

 前項に述べたとおり、「嘗胆」は「屈辱を忘れないようにする」という意味で紀元前1世紀の書物『史記』に登場し、その後もよく多くの書物で使用されたが、しばらくは「臥薪」と組み合わせた形ではなかった。「臥薪」は『晋書』『梁書』などで意味は現在のものと同じでありつつも単独で使われ、特に呉越戦争からの成語であるといった修飾文も存在しない。一方で、「臥薪抱火」(わざわざ危地に入ることのたとえ)といった意味が全く異なる別の成語として使用される例も古書(『三国志』や『梁書』)には残っている。

「臥薪嘗胆」と連なった形では、現在残る書物では1213世紀(宋代)の、蘇軾(1037 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来 臥薪嘗胆」、以降、『朱子語類』(1270年成立)や『資治通鑑』の胡三省(1230- 1287年)による注などから見かけるようになる。特に『通鑑』胡注では、臥薪嘗胆の語の前に「越王勾践の」が修飾されており、呉越戦争に関係していることを明示している。その後14世紀(元代)の書物となると、『遼史』『宋史』『金史』などに多く使われ、『十八史略』等の通俗書にも用いられるようになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A5%E8%96%AA%E5%98%97%E8%83%86

臥薪嘗胆は、故事成語ですが、字からは薪(たきぎ)に

臥(ふ)し胆(きも)を嘗(な)めると読めます。薪(たきぎ)に

臥(ふ)しとは、薪を下にひいて寝ることです。薪を下にひいて寝れば痛くて眠れません。この痛さに耐えることよってくやしさを忘れないようにしたことが臥薪です。嘗胆は、苦い胆をつるし日夜それを嘗めて恥辱の日々をかみしめたことに由来します。

司法書士 藤村和也 http://www.kfsj.net

2018年4月17日 (火)

四面楚歌(故事成語 史記)

四面楚歌とは、周囲がすべて敵や反対者で、まったく孤立して、助けや味方がないことです。故事成語ですが、字から意味はまったく分かりません。

由来

「秦の国をほろぼした楚の国の項羽が宿敵の漢の国の劉邦の軍に敗れて、包囲されている時に、深夜になって、劉邦に味方する将軍の韓信が漢軍楚の国の歌を歌わせた。それを聞いた楚の国の項羽は楚の国の兵が降伏してしまったと思い、絶望してしまったことから、この語ができた」

始皇帝で有名な中国の秦が滅亡後、漢の劉邦(後の初代皇帝 高祖)と楚の項羽が覇権を争いました(漢楚戦争)。史記の中に漢楚戦争の記述があります。

項羽は劉邦に対して、連戦連勝でしたが、「垓下の戦い」において劉邦率いる漢に敗れ、死亡しました。四面楚歌は、「垓下の戦い」の最後の方の話です。四面楚歌は漢文としても有名なので大学受験の漢文にもでるほどです。

司法書士 藤村和也

http://www.kfsj.net

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